『蜂蜜と遠雷』
なぜ主人公が悲しんだりしてもいないのに、涙が出るのだろう?
なぜ音楽という感性に直接響くはずのものが、文字という記号を通じて脳を経由して入ってくるのだろう?
とにかくストーリーに引き込まれる。読みながら、天才ピアニスト3人、苦労人の社会人ピアニスト、取材をしているジャーナリスト、審査を担当している音楽家という複数の視点がめまぐるしく切り替わる。切り替わるタイミングがわかりにくく、誰が語っているのかが空白になる数行があります。その空白のときに自分という読み手がふとコンクールに居合わせた登場人物として登場する不思議な感覚に陥ってしまうのです。
なので、コンクールの順位発表の瞬間とかは、読み飛ばしてしまうのです。誰が残ったのか?誰が落とされるのか?まるで音楽ファンとして観客の一人がストーリーの中にいるように。
いや〜事前の評価が高かったとは言え、最高に面白かった。感動した。そして芸術の価値を再確認した。それは音楽という芸術も、文学という芸術も。
『蜂蜜と遠雷』からの名言
まさに業、生きている業だ。お腹を満たすわけでもない、あとに残るわけでもない。そんなものに人生をかけるとは、業としか言いようがないではないか。
今日の一言
脳が「美」を認識するしくみは、何か、生まれつき備わっている。学習して獲得するものではない。
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